新約聖書 超有名である。世界で最も著名な本かもしれない。イェスキリストも世界一有名だといっても過言ではないだろう。西洋いや東洋でもこの人抜きの宗教論や哲学、文学、映画などは考えられないだろう。それほど影響力が強いのにもかかわらず、奇跡を起こすすごい人ぐらいのイメージで、その教えについては深く考えたこともない人は多いのではないだろうか?私もその一人である。そんな私にとって今回の放送は非常に考えさせられるよいものだった。今までテキストは購入せず視聴していたのだが、購入してしまった。NHKオンデマンドで4月分放送回視聴できます。
はじめに得た知識として、キリスト教では、新約聖書と旧約聖書の関係は、旧約聖書は新約聖書のイェスの到来するまでの神の準備期間という意味付けだそうだ。アダムとイブ、カインとアベル、ノアの箱舟、モーゼ、ソロモン、バベルの塔、ヨブの苦難などの話はキリスト教にとっては、イェスの到来に通じる道程にあるということ。(旧約聖書の放送回もあります。旧約聖書の放送回も非常におもしろかった。NHKオンデマンドで現在視聴可能)
今回放送での驚きポイントは赤色で強調
人はパンのみにてあらずには続きがあるということ。
”人はパンのみにていきるにあらず、神の口からでる一つ一つのことばによる”
マタイによる福音書より
痛恨なる誤解。パンより高級なものがあるという意味ではない。そうではなく、まずパンは必要なのだ。ハンガーストなるものがあるじゃないかという反論がでてきそうだけれども、ハンガーストを決意するには脳が働いていなければならない。脳に血がめぐるには、パンが必要だ。
どんなに高級な思想をいだいても、パンは必要なのだ。そういえばキリスト教は食事の前に感謝の祈りをささげている。パンの重要性をよくしっているのでは?パンと祈りの両輪によって信仰は可能なのだ。飛躍するが、パンを生み出す肥沃な土地(肥料となりえる物質)がなければ、最先端科学技術なんて無意味なのである。肥沃な土地によって生み出されたパンがなければ、人間の脳が働かない。物質自体は人間にはつくりだせない。なにもないところから、人間はなにも生み出せない。人間自体は被創造物だから。それは神の領域だ。神は人間が考え祈れるように、その原動力としてパンを創造した。・・・と勝手に解釈してみた。なんのために・・・考えると迷宮会入りになってしまうので、ここではやめておく。
キリスト教の言う罪とは
罪とは的外れ、つまり神の働きなくして生きることはできないのに、自分の力だけで生きられると思い込んでいる状態を指すそうだ。一般的な意味での犯罪とは関係ない。
キリスト教でいえば、現代日本は罪でみちあふれているのは自戒を込めて自明だ。
傲慢は罪なのである。
キリスト教におけるゆるすとは
自分が許すのではない!神にゆるすという行為を預けるのだ!なぜあずけるのか?
自分は一方的に許しを与えることのできる存在か?うしろめたいことはないのか?
あなたが神にその怒りをあずけることによって、じぶんも許されるのだと。
日常のなかで実践するには、忍耐をつみあげねばかなり難しい。実践を重ねていくことによって神に預ける行為が当たり前という認識になっていくのだろうか?頭で考えてもわからない。実践が大事だというメッセージはわかる。
キリスト教の祈るとは
なにかをお願いすることではない。あなたの必要とすることは神は既に知っている。
つまり心を空にして祈るのだ。そうだったのか・・・心を空にしてなのか・・・
日本人の損得勘定丸出しの宗教的態度。キリスト教では完全アウトである。
なにかをするから(投げ銭など)なにしてちょうだい(ご利益)のビジネスライクな関係はイェスが毛嫌いするところ。ヨハネによる福音書でイエスは神殿の宮殿内で商売をしているものに対して暴れる場面がある。
若い頃はキリスト教の教えなんて理想的すぎてどうなのかとおもっていたが、
人生経験を積み上げるにつれて、このキリスト教は人間の弱いところを痛切にあぶりだしているな、さすが何千年も続いてきた宗教だなと本当に思う。人間は弱いのである。自力では生きれないのである。年を重ねて様々な人間と関わり合い、肉体が衰えてきて万能感が跡形もなく消え去ると、殊にそう感じる。
この100分de名著シリーズは前々から視聴していたが、非常に良い番組だと思う。名前は知っているが、普段読むには時間がかかり、原典を難しそう、骨が折れそうという理由で手に取らず、なにが書かれているのかも知らないという状態を脱するには非常に有益な番組。文学だけでなく、思想書など難解な原著も映像で解説するので、とっつきやすい。もちろんこれで原著を読んだ気になってはいけないが、非常によい読書ガイドになりえる。是非視聴お薦めします。